慶應義塾大学病院 漢方医学センター 堀場裕子先生
~漢方薬の新時代診療風景~
漢方薬は、一般に知られる処方薬(西洋医学)では対処が難しい症状や疾患に対して、西洋医学を補完する使われ方も多く、今後の医療でもますます重要な役割を果たすと考えられます。
近年、漢方薬の特性については科学的な解明が進んだこともあって、エビデンス重視の治療方針を取る医師の間でも漢方薬が使用されることが増えています。
漢方薬を正しく理解して正しく使うことで、治療に、患者さんに役立てたい。日々勉強を重ねる、身近な病院の身近なドクターに、漢方活用の様子を直接伺いました。ドクターの人となりも見えてきます。
日本を代表する東洋医学の拠点
慶應義塾大学病院の漢方治療は、1991年に漢方相談室が設立されたことから始まりました。その後、2008年に現在の漢方医学センター(以下、当センター)が誕生しました。
当センターは、前身も含めて30年以上の歴史があります。初代センター長の渡辺賢治先生をはじめ、多くの先生方によって「現代医学の中で漢方治療をよりよく生かす」という当初の理念が連綿と受け継がれてきました。
当センターは大学病院内の診療部門です。そのため、最先端の医療だけではカバーしきれない患者さんの症状への緩和・改善への道筋を立てる役割を担うことが多くあります。他の診療科での治療中に生じた副作用や治療後に残った症状、がん治療後の再発予防など、多くの患者さんが紹介されてきます。
また、東洋医学研究の拠点でもあり、研究事業も盛んです。安全な漢方薬の使用に関する研究の一例として、吉野鉄大(よしの てつひろ)先生による、甘草(かんぞう)と偽アルドステロン症の関係についての研究1)があります。漢方薬のおよそ7割に含まれるとされる生薬の甘草は、過剰摂取により偽アルドステロン症を引き起こすといわれてきましたが、同研究により、量だけでなく、もっと多様な要因がある可能性が示されています。
患者さんが教えてくれた『漢方という新たな希望』
「入院してきた患者さんが、健康を取り戻し笑顔で日常生活に戻るまでをサポートしたい」という思いから、私が医師として最初に選んだのが産婦人科でした。
ただ、診療を重ねるうち、例えば、がんの手術自体は成功したものの術後の後遺症などに苦しまれている患者さんを多く目の当たりにしてきました。そうした方たちに何ができるのか、答えの出ない日々が続きました。そんな中、転機は唐突に訪れました。
ある日の外来で、『術後にお腹が張って足が冷える』と訴える患者さんが来られました。私はこの原因不明の症状に対して、大建中湯(だいけんちゅうとう)という漢方薬を選びました。
当時の私はまだ漢方への見識が浅く、確信はありませんでした。しかし、効能効果を頼りに『何とか患者さんに楽になってほしい』と藁にもすがる思いからこの漢方薬の処方を始めたのです。
幸運にも、この漢方薬は大変よく効きました。そして、その患者さんの「こんなに漢方薬が効くなら、もっと早く先生に診てもらえばよかった!」という言葉は、私に漢方の可能性を教え、医師としての新たな希望を授け、漢方を学ぶ楽しさを与えてくれました。
漢方医学センターの患者層と多い訴え
現在、当センターには院内の他の診療科から紹介された患者さんが多くいらっしゃいますが、院外のクリニック等の患者さんの受診も歓迎しています。漢方に興味があり、専門医の診断をご希望の方は、ぜひかかりつけの先生に紹介をご依頼ください。
漢方医学センターの患者層は特に40~60代が多く、男女比は約1:3で女性が多いことが特徴です。当センターの調査によると、漢方薬は女性に多い冷え症、月経困難症、便秘、頭痛、むくみなどの症状に効果があり、その他にも胃腸の不調(便秘、下痢、しぶり腹)や不眠、関節痛など、幅広い症状に有効とされています。
そのため、初診患者の紹介元は婦人科、消化器内科、精神神経科など多岐にわたっています。漢方は、こうした体調不良や慢性症状に対して、西洋医学と相乗的に役立つことが多いことが分かります。
印象に残る漢方薬や処方の仕方など①~抑肝散について
当院がメインで扱う漢方薬はエキス製剤と呼ばれるもので、およそ150種類もの処方があります。中でも、これまでの診療などで用い、印象に残っている処方がいくつかあります。そのひとつが、精神・神経の症状などによく使われる「抑肝散(よくかんさん)」です。
抑肝散はメンタルの不安定によるイライラ、不眠などの緩和・改善に効果を発揮する漢方薬です。もともとは子どもの夜泣きやかんしゃく、神経過敏に対する漢方薬として作られました。しかし現在では、老若男女を問わず、メンタルの安定に働く処方として知られています。
抑肝散には『子母同服(しぼどうふく)』という飲み方があります。読んで字のごとく「子と母が同じ処方を飲む」というもので、当センターでもこの方法の有効例がよく見られます。『母親のイライラの原因を探っていったらお子さんのかんしゃく(イライラ)だった』というケースが比較的多いためです。このような場合、母子いずれかではなく母子ともに抑肝散を飲んでもらいメンタルの安寧を図る必要があります。
また、日本医師会災害医療チーム(JMAT)が被災地支援に赴く際の携行医薬品リストの中に含まれる漢方薬は2種類だけですが、その1つが抑肝散です。同リストの選択基準(使いやすく、安価で確保しやすい)を満たし、避難所生活によるイライラや不眠などの精神不安を抑える働きが評価されてのことと思われます。
印象に残る漢方薬や処方の仕方など②~煎じ薬について
当センターでは、エキス製剤に加えて煎じ薬の処方も行っており、煎じ薬は生薬を水で煮出して得られる液体です。煎じ薬には、薬効成分を素早く吸収できる点や、顆粒剤を飲みづらい方にも継続しやすいという利点があります。また、生薬の種類や量を調整できるため、患者さん一人ひとりの症状に合わせた細かな処方が可能です。
さらに、保険適用の生薬を使用することで、エキス製剤と比べて費用に大きな差がない点も魅力です。加えて、一部の薬局では大量に煮出した生薬を1回分ずつパックに小分けして提供しており、これにより服用の手間も軽減され、続けやすくなっています。
寄り添える漢方薬で逃げない医療を実践し続ける
現在、私どもではAIを用いた漢方の自動問診システムの研究2)に取り組んでいます。研究はデータ収集の段階から、漢方薬の処方が予測できる段階に入っています。近い将来には、患者さん自身がタブレット端末で問診項目に答えるだけで適した処方が示される、漢方診療をサポートする仕組みができると考えています。
こうしたシステムが開発される背景には、医師側の課題があります。それは、漢方薬の処方選びができるようになるまでの経験・知識を積むことのハードルの高さです。
これに関連して、昔、初代センター長であり私の師匠でもある渡辺賢治先生から、漢方処方の選び方について次のようなお言葉をいただいたのを思い出します。
「漢方薬の選択に正解はない。自分で考えた筋道がちゃんとできていればそれが正解だから」
ここでいう筋道とは漢方医学的な診断のことです。それは、それぞれの漢方医の長年の知識・経験等が入った「引き出し」から導き出されます。
私自身の「引き出し」の中には多くの患者さんとの貴重な出会いや、古典、文献、セミナーなどの勉強会等から得た膨大な知識が詰め込まれています。その「引き出し」はまだまだ小さく未熟ですが、根底には師匠の想いである「逃げない医療」が刻まれています。
私はこの「逃げない医療」を胸に、「患者さんに寄り添える漢方薬は必ずある」という新たな信念のもと、当センターの仲間たちとともに、これからも漢方診療を続けていきたいと考えています。
(取材・文:岩井浩)
- 参考
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- Yoshino T, Watanabe K et al. Front Nutr. 2021 17; 8: 719197. doi: 10.3389/fnut.2021.719197. PMID: 34604277; PMCID: PMC8484325
- 有田龍太郎, 吉野鉄大, 堀場裕子, 他. 日東医誌 2018; 69(1): 82-90
慶應義塾大学病院
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堀場 裕子(ほりば・ゆうこ)先生
杏林大学医学部卒業後、慶應義塾大学医学部産婦人科を経て、2011年より漢方医学センター勤務。日本産科婦人科学会 産婦人科専門医・女性ヘルスケアアドバイザー、日本東洋医学会 漢方専門医・指導医、日本漢方生薬ソムリエ協会 漢方生薬ソムリエ、日本臨床漢方医会 漢方家庭医。